そうま ながたね
嘉永3年(1850)11月22日 ─ 大正13年(1924)1月26日
彦根藩士の家に生まれた。戊辰戦争では官軍方彦根隊に加わり、大いに奮闘。明治4年(1871)、新政府の命による彦根藩からの欧米視察員に選抜されるが、予期せぬ事情で渡航不可能となる。即刻、藩邸に強く願い出て、同年藩費留学生として渡米する。ミシガン州の農学校で学ぶうち、明治6年12月文部省からの留学生一斉帰朝命令が出てやむなく帰国。学資づくりに奔走した結果、旧彦根藩主からの援助金が下り、再度の留学が可能となった。
明治8年6月、ニューヨーク州ピークスキル学院の商業課程を卒業。10月にはコロンビア法律学校(現?コロンビア大学)に進学、図書館で判例を精読し、模擬裁判では米人学生に伍して活躍した。また、日本法律会社(法律学徒仲間会)の結成で中心的役割を果たす。卒業後、明治10年エール大学の大学院で、法律?経済を学ぶ。かたわらボードウィン教授の法律事務所で実務を身につけた。終生の同志、田尻稲次郎と経済学のクラスで出会い、興学社を興して法律と経済の環を繋ぐ。
明治12年9月帰朝。翌13年に専修学校を創立して、講義に情熱を注いだ。司法省附属代言人、判事を務め、明治23年第1回衆議院総選挙に当選。また横浜正金銀行取締役?頭取を歴任して外国公債獲得に手腕を発揮した。初代校長、初代学長。
Nagatane Soma
Nagatane Soma
たじり いなじろう
嘉永3年(1850)6月29日 ─ 大正12年(1923)8月15日
薩摩藩士の家に生まれる。慶応2年(1866)、藩の開成所で洋学を学び、長崎遊学を経て明治2年(1869)福澤諭吉の慶應義塾に入る。続いて進学した開成学校(大学南校、のちに東京大学の一部)で英学を修学中、新政府が打ち出した貢進生制度により、鹿児島藩貢進生となる。明治3年12月、各省が将来の幹部職員養成のために留学生を派遣した際、刑部省国法民法課勤学の資格を得て渡米した。
初めニューブランズウィックの大学予備校に入ったが学風にあきたらず、1年ほどでハートフォードの高等学校に転じている。明治6年の留学生一斉帰朝命令の際、同校校長を初め篤志家の援助で勉学を続行できることとなり、エール大学に進学した。大学では、新生国家に貢献する道は経済学?財政学にあるとして勉学に没頭。明治11年6月に卒業し、エール大学の大学院に進み、この時相馬永胤、駒井重格と友情を結ぶ。
明治12年に学業なって帰朝。翌13年に専修学校の創立を果たした後は、経済科の講師を担当しながら文部省御用掛や東京大学理財学講師を兼任する。明治13年、大蔵省に入省。大蔵次官、会計検査院長を歴任した後、大正7年(1918)東京市長となる。フランス財政学の本格導入など、近代的財政制度の創設に貢献し、財務行政を推進する一方、後進の育成に情熱を注ぎ、篤く慕われた。明治21年に日本最初の法学博士。子爵。
Inajiro Tajiri
Inajiro Tajiri
めがた たねたろう
嘉永6年(1853)7月21日 ─ 大正15年(1926)9月10日
幕臣の家に生まれた。幼少から昌平坂学問所で漢学を学び、開成所で英語、数学を修めて神童と呼ばれる。明治2年(1869)、16歳で静岡藩の学問所英学世話心得から英語五等教授に就任する。明治3年4月、藩の命により上京、大学南校に入学する。この年8月、イギリス留学を命じられたがアメリカ留学を願い、大学南校第1回国費留学生になる。
明治5年9月、ハーバード法律学校(現?ハーバード大学)に入学の際、必須条件とされた「キリスト教徒であること」に対して一歩も譲らずに意を述べて入学許可を得、明治7年7月同校を卒業する。
帰国後文部省に勤務。明治8年に留学生監督となり再び渡米、自身も法学を研鑚。この時に相馬永胤、田尻稲次郎、津田純一、三浦(鳩山)和夫らと親しく交わり、彼らとともに日本法律会社を設立した。
明治12年に帰国。翌13年、司法省附属代言人。同年の専修学校創立後は、自ら編纂した『私訴犯法』『羅馬法典』などを教科書に用いて講義し、法律学の新時代を拓く。官界においては、横浜税関長、大蔵省主税局長、韓国政府の財政顧問、枢密顧問官などを歴任。わが国の税制?財政制度の整備と、韓国の近代的財政制度の創設に貢献したほか、煙草専売事業の基礎を築く。そのほか東京音楽学校(現?東京芸術大学音楽学部)の創立にも尽力するなど、音楽教育の分野にも大きな足跡を残した。男爵。
Tanetaro Megata
Tanetaro Megata
こまい しげただ
嘉永6年(1853)8月21日 ─ 明治34年(1901)12月9日
桑名藩士の家に生まれ、14歳で家督を継ぐ。戊辰戦争では藩主松平定敬に従って戦い、負傷して帰藩する。
明治4年(1871)廃藩置県により桑名藩知事を免官された松平定教がアメリカ留学を志した際、学友に選ばれ、横浜のブラウン塾で約2年間英語を学習した後、明治7年12月随伴して渡米する。
まずニューブランズウィックの大学予備校で2年間学び、ラトガース大学に入学して経済学を専攻した。英語のほかフランス語にも熟達した。
滞米4年の間に、同じ経済学を学んだ田尻稲次郎や相馬永胤、目賀田種太郎と友情を深める。また帰国の際に駒井は、自らの新調した背広を田尻に贈って錦を飾らせたと伝えられる。その後も、田尻との友情は終生続いた。
明治13年専修学校を創立。翌14年大蔵省入りしたが、岡山中学校および岡山県師範学校の教師兼校長に転じ、後、再び大蔵省に戻る。明治29年国債局長兼大蔵省参事官に昇進。明治32年高等商業学校(現?一橋大学)校長を兼任、名校長として慕われた。
田尻とともにルロア?ボリューの『財政学概論』の翻訳と祖述を通じて日本へフランス財政学を導入し、近代財政制度の創設と財務行政および人材の育成に貢献した。48歳の若さで、要職にあったまま死去する。
Shigetada Komai
Shigetada Komai