アメリカで経済学?法律学を学んだ相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格の4人が中心となり、京橋区木挽町(現在の中央区銀座)に経済科と法律科を併設した「専修学校」を創立。
日本で初めての経済学と法律学が日本語で学べる高等教育機関の誕生であった。
アメリカで経済学?法律学を学んだ相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格の4人が中心となり、京橋区木挽町(現在の中央区銀座)に経済科と法律科を併設した「専修学校」を創立。
日本で初めての経済学と法律学が日本語で学べる高等教育機関の誕生であった。
学生数51人で始まった専修学校であったが、明治18年、年々増え続ける入学者に対応するため、神田区今川小路(現在の千代田区神田神保町)にキャンパスを新築。現在の神田キャンパスの地へと移転した。
専修学校をはじめ、明治10年代に設立された東京法学社(現在の法政大学)、明治法律学校(現在の明治大学)、東京専門学校(現在の早稲田大学)、英吉利法律学校(現在の中央大学)は「五大法律学校」と称され、合同で法律学に関する討論会を開催。活発な活動を行っていた。
校友からの寄付金によって創立30周年記念講堂を設置。また同時期に創立者である相馬?田尻が還暦を迎えたことを記念して相馬田尻記念文庫が設立され、記念講堂に隣接した書庫が建設された。これが本学図書館の始まりである。
明治36年の「専門学校令」によって私立学校も大学を名乗ることを許されたが、本学は大正2年、学内の組織?設備が整備されたことに伴い、初めて校名を「私立専修大学」と改称した。
講師として「計理学」を教えていた鹿野清次郎が中心となって、日本で初めてとなる計理科を新設。以後、多数の計理士(現在の公認会計士)を世に輩出し「計理の専修」と呼ばれるようになった。
大正7年に公布された大学令により、大正9年に慶応義塾をはじめとする私立学校8校が大学へと昇格(旧制大学の誕生)。専修大学も学生?卒業生の尽力によって、大正11年に念願の大学へと昇格した。
大正11年10月30日、開催された学制頒布50年記念祝典において、創立者の相馬永胤、田尻稲次郎の2人が教育功労者として表彰された。以後、この日を大学記念日と定めた。
関東大震災においてキャンパスがすべて焼失。しかし、学生をはじめ全国の卒業生の尽力によって、わずか3ヵ月後には焼け跡に講堂と教室からなる仮キャンパスが建設された。
昭和3年、復興建築として鉄筋コンクリート三階建ての新キャンパスが竣工。翌年、創立50周年を迎えた専修大学は、この新しく生まれ変わった神田キャンパスにおいて創立50周年の記念事業を行った。
体育会が発足したのは昭和8年だが、運動部自体はそれ以前から活動しており、なかでも野球部は昭和6年から始まった五大学野球連盟(現在の東都大学野球リーグ)において6連覇を達成するなど輝かしい成績をおさめた。また陸上部は昭和14年の第20回箱根駅伝において初優勝を果たした。
昭和16年に勃発したアジア太平洋戦争の激化に伴い、政府は文科系高等教育機関に在学する20歳以上の学生に対して徴兵猶予の特権を廃止。これにより多くの大学生たちが戦地へと向かった。
アジア太平洋戦争終結後、授業の再開とともに始まった学生たちの学園改革運動は激しさを増し、時の総長の退陣要求にまで発展。こうしたなか代わって総長を務めたのは、明治?大正?昭和と人権派弁護士として活躍した卒業生?今村力三郎であった。総長となった今村は、財政難に陥っていた大学のために私財をなげうち母校の復興に尽力した。
昭和22年に公布された「学校教育法」をうけ、昭和23年10月、日本電気の研究所があった生田の地を買い取り生田キャンパスを開設。これにより商経学部と法学部の2学部を擁する戦後の新たな大学として再出発を果たした(新制大学の誕生)。
新制大学1年目となる昭和24年は大学創立70周年にあたり、その記念行事が神田キャンパス、また新装なった生田キャンパスにおいて盛大に行われた。
キャンパスが老朽化していた神田キャンパスでは、教室不足が深刻化し廊下に学生が溢れるほどであったが、学生や卒業生からの寄付金によって、ようやく昭和26年から4年がかりで神田キャンパスの増改築に着手。また昭和31年から37年にかけては生田キャンパスの増改築も行われた。学生の学習環境は大きく改善された。
マスプロ教育とは、大教室において大人数の学生に対して講義を行う教育方法のことである。高度経済成長期、学生数が1万人を超えるほど急成長を遂げた専修大学には当時、大人数が入れる教室がなく、その問題を解消すべく新設されたのが生田キャンパス3号館であった。
昭和40年、後にプロとしても活躍したエース?芝池博明や社会人野球で活躍した内野手?塩沢誠らを擁して全日本大学野球選手権大会で初優勝。
昭和の始めに設置されて以来、専修大学への最寄駅となっていた都電「専修大学前」停留所。地下鉄の普及に伴い、昭和45年3月に廃止されるまでの間、多くの学生に利用された。
創立100年記念事業として、神田キャンパスに高層型のキャンパスが登場。当時は日本一の高さを誇り、高層型キャンパスの先駆けとなった。
創立100年を記念して、神田キャンパスに高層型キャンパスの新設、生田キャンパスに新1号館?総合体育館が新設され、皇族も参加した記念式典は日本武道館において開催された。
専修大学所蔵の蜂須賀家旧蔵本のうち『長秋詠藻』が国の重要文化財に指定。平成3年には師継筆貞応本『古今和歌集』も国の重要文化財に指定された。
第2次ベビーブームを背景に志願者が5万人を突破。
創立120年を記念して、図書館と情報科学センターを核とした120年記念館(生田キャンパス9号館)竣工。
専大通りに面した地下1階、地上8階建ての大学院棟(神田キャンパス7号館)。大学院生が利用する教室や図書室のほか、就職部(現:キャリアセンター事務部)の事務室も移転された。
少人数教育によって人間性豊かな法曹を育成するという理念を掲げ竣工した法科大学院棟(神田キャンパス8号館)。教室、自習室のほか法廷教室、図書館法科大学院分館や今村記念法律事務所が設置された。
創立130年記念事業の一環として、生田キャンパスの新たな「知の発信」の拠点?130年記念館(生田キャンパス10号館)竣工。
本学からの知的発信を基軸とした「地域貢献」機能をさらに持続的に発展させ、多様な事業展開を行うため、地域社会への新たな「知の発信拠点」として設置された。
明治時代に専修大学のシンボルだった「黒門」。創立130年を記念し、学生のご父母で組織する育友会からモニュメントとして寄贈された。
明治初期の激動の時代、アメリカに留学した本学の創立者4人の学校づくりへの情熱を描いた作品。創立130周年を記念して作られ、全国で上映された。
神田キャンパスの新たな顔として、アクティブ?ラーニング対応の神田キャンパス5号館竣工。
生田キャンパスの新たなシンボルとして、躍動感のある学びの場をテーマとした生田新2号館、思索の場をテーマにした生田新3号館竣工。
神田キャンパスで学生生活を支援する学生サポートセンター(神田キャンパス9号館)。学生生活課、学生相談室、キャンパス?ハラスメント対策室、エクステンションセンターなどを集約。
創立140周年記念事業の一環として、神田キャンパスに都市型高層新校舎?140年記念館(神田キャンパス10号館)が誕生。ガラス張りの洗練された地上16階建ての新校舎は、専修大学の施設の中では最も高層の建物となる。1階にはカフェも併設し、サクラやモミジを植栽するなど、地域に開かれた空間となっている。